アンチって面白い。
「小林よしのりは、以前はAと言っていたが、今はBと
言っている。矛盾しているぞ。こんな人を門下生は信じて
いるのか?止めろ!信者を止めてしまえ!」と必死で言っ
てくる。
よく覚えてるなあと思う。
わしも門下生も忘れていることをしっかり覚えている。
単行本を再読して探したのだろう。
どこに何を書いてたかは、トッキーが抜群の記憶力だが、
データ係としてはアンチの方が凄いかもしれない。
だが無意味だ。果てしなく無意味なことをやっている。
わしの読者はわしに対して「教義」を求めていない。
自分の頭で考えたい、思想したいと思っている人たちだ
から、わしが以前と違うことを言ったら、「AとB、
どっちが正しいのだろう?」と自分の頭で思想を始める。
「差別論」を描いたときも、「脱正義論」を描いたときも、
「慰安婦問題」を描いたときも、皇統の「女系公認」を
描いたときも、ハレーションを起こして、どんどん離れた
人もいるが、残った人もいる。その差は何か?
離れた人はわしに「教義」を求めていたのであり、残った
人は「思想する刺激」を求めていたのである。
つまりアンチは、わしが神でなかったことに怒りを表明
している。
申し訳ないがわしは神にはなれない。勘弁してほしい。
わしは思想し続ける人である。
いつまでたってもわしの読者でい続ける人は、わしと
一緒に成長し続ける楽しみを味わう人たちである。
人間は「即自存在」ではなく、「対自存在」である。
モノや動物は完成して変わらない「即自存在」だが、
人間は一生を終えるまで変わり続けることができる
「対自存在」である。
そういう意味では神もまた「即自存在」と言える。
アンチは「即自存在」になりたいのだ。
わしは「対自存在」だから変化し続ける。
人間は生活に疲れて、食って出して寝るだけの動物の
ような「即自存在」になってしまう恐れがある。
いや、ほとんどの人がそうである。
わしの読者であり続ける人は、「即自存在」に頽落
することが怖くて、人間であろうとし続ける人たち
なのだろう。
自分の頭で考えて、どうしても分からなければ、
ライジングのQ&Aで質問すればよい。
ただしなるべく短い文章で。何かを主張したいだけの
長文は削除する。
脳が老化すれば「教義」しか求めない。
思想し続けることが苦痛になる。
わしは66歳になってもまだ思想し続けることが
楽しくて仕方がない。
恐ろしく脳が若いのは間違いない。